B 原爆による被害

B-1 原子野と化した長崎の街

 

一発の原子爆弾で一面原子野と化した長崎の街。

(小川虎彦氏 撮影)

 

実際に被爆した大型の被災資料の展示や、被爆後の長崎の街を大型のスクリーンに映しています。

1 瓊浦(けいほ)中学校
の給水タンク
2 火の見やぐら 3 三菱長崎製鋼所事務所
ビルのらせん階段
4 三菱長崎製鋼所の
鉄骨アングル
5 大橋橋塔

B-2 浦上天主堂の惨状

16世紀後半より、キリシタン布教の地として歴史を持つ浦上地区。1587年のキリシタン禁令にはじまる長い迫害の歴 史に耐え、1873年(明治6年)禁制の解かれる日を迎える。信仰の灯を守りとおした人々は、レンガを一枚一枚積み上げ、20年の歳月をかけ、浦上天主堂 を1914年(大正3年)に、その後双塔を1925年(大正14年)に完成させた。双塔の高さは26メートル、東洋一の壮大さを誇っていた天主堂であった が、原子爆弾により、鐘楼ドームは吹き飛ばされ、わずかに側壁を残しただけで、無惨に崩れ落ちた。

(エドワーズ・ロジャース氏撮影)

被爆した浦上天主堂の側壁(再現造型)をはじめ、浦上天主堂で被爆した天使像やロザリオなどの被災資料を展示しています。


被爆した浦上天主堂の側壁(再現造型)


天使像


ロザリオ

B-3 長崎原爆投下までの経過

 長崎に原爆が投下されるまでを年表と写真資料等により展示しています。また、長崎型原爆:ファットマンの模型も展示しています。

 

 

 広島に原爆が落とされた3日後の1945年(昭和20年)8月9日、長崎に第2の原爆が落とされた。

 原爆は8月6日にテニアン島で組み立てられ、8日、アメリカ陸軍在グアム第20航空軍司令部野戦命令17号において、小倉を第1目標、長崎を第2目標として翌9日に投下することが指令された。この日、ソ連が日本に宣戦布告した。

 9日、B29ボックス・カーは小倉上空に達したが、前日の八幡爆撃による煙やもやのため投下を断念、第2目標の長崎に向い原爆を投下、11時2分にさく裂した。

B-4 被爆した長崎の街

長崎市街の地形模型を展示し、天井からのモニターによって、模型上に火球、熱線、爆風、火災、放射線の面的な広がりをわかりやすく表示しています。

また、模型の周りにある5台のモニターでは、被害の状況を、写真や映像で説明しています。

 

B-5 熱線による被害

『熱線の検証』『熱線による物的被害』『火災による被害』『熱線による人的被害』を被災資料や写真などで説明しています。

 

熱線の検証

火球から放出された大量の熱線は、爆発から3秒ほどの短い時間に、異常な高熱で地上を包んだ。地表面の温度は爆心地で3,000度から4,000度、1キロメートル離れたところでおよそ1,800度、1.5キロメートル付近で600度以上に達したものと推定される。これが大規模な火災を引き起こした。熱線が届いた距離は浦上地区の地形と関係するので一様ではない。しかし、その影響は遠くまでおよんで、爆心地からおよそ4キロメートル離れたところでも、屋外にいた人は熱傷を負うほどだった。

 

熱線による物的被害

爆心地の近くでは、熱線のすさまじいエネルギーによって、燃えるものすべてが火をふいた。溶けたガラス、沸騰して泡立った瓦、焦げて黒くなった石などが、その激しさを物語っている。爆心地から遠ざかるにつれて熱線は弱まるが、それでも2キロメートル以内では衣類、電柱、樹木などの表面が燃えたり焦げたりした。

 

火災による被害

 熱線と爆風による被害は、火災によってさらに増大した。爆風の被害が家屋の半壊程度ですんだところも、後で起きた火災のために結局全焼した。全焼壊家屋12,900戸、半焼壊家屋は、5,509戸にのぼっている。火災は、犠牲者の数も増大させた。倒れた家の下敷きになっても、火さえ来なかったら、外傷だけで助かったはずの人が、きわめて多い。

 

熱線による人的被害

 熱線のわずか数秒間の高熱は、人々の皮膚にあびせられた。熱線のすさまじさは通常の火傷では考えられない被害をもたらした。爆心地からの距離により負傷の程度は異なるが、重傷になると表皮は焼けただれてズルズルとはがれ落ち、皮下の組織や骨までが露出した。1.2キロメートル以内では熱線だけでも致命的であり、爆心地付近では、あまりの高熱に一瞬のうちに身体が炭化し、内臓の水分さえ蒸発したと考えられている。

 

B-6 爆風による被害

爆心地より1キロメートル以内では、一般の家屋は原形をとどめないまでに破壊された。鉄筋コンクリートの建物などがところどころに残ったが、いずれも建物とは名ばかりの無惨な状態だった。つぶれたり、大きく変形したありさまが、爆心の方向を指し示している。このようなすさまじい爆風に人々は吹き飛ばされ、散弾のような無数のガラスや木片を全身に浴びた。

 

B-7 放射線による被害

原爆の放射線は人体を刺し貫き、そのときいろいろな細胞を破壊する。損傷の程度は被爆した量によって異なるが、爆心地から1キロメートル以内で被爆した人のうち、無傷であっても、その大多数の人が死亡している。放射線の破壊力はそれほど強烈だった。人体におよぼす害は、爆発のときだけでは終わらない。放射線は身体の奥深くを傷つけ、時がたつにつれて様々な症状を呼び起こす。あの夏に始まった放射線障害の苦しみは、いまだに消えることがない。

 

B-8 救援・救護活動

原爆は、定められていた医療救護体制にも壊滅的な打撃を与えた。生き残った医師や看護婦らによって、救護活動が始められたが、器材や薬品が不足し、被爆者に対して応急措置さえ十分に施せる状態ではなかった。こうした混乱の中、救援列車が走った。燃えさかる炎の中を爆心地を目指して進み、途中で停車したが、多数の負傷者を沿線の病院へ運んだ。夕方近くには近郊の海軍病院などの救護隊が、夜になって県下の町村ごとの警防団を主力に組織された救援隊がそれぞれ長崎に入ってきた。


『被爆者救援列車』 寺井 邦人氏画

 

B-9 永井隆博士

永井隆博士の功績

永井隆は、助教授をつとめる長崎医科大学附属医院で被爆した。自らも重い傷を負ったその直後から、負傷者の救護や原爆障害の研究に献身的に取り組んだ。やがて、彼の思いは医師としての役割から、長崎の町の文化の復興、そして平和の願いへと広がっていく。被爆以前から患っていた白血病が次第に悪化するが、病床についてからも、執筆活動を通してその実践を貫いた。被爆から6年の命だったが永井隆の足跡からは、平和への切実な祈りが聞こえてくる。

>永井隆記念館ウェブサイト

B-10 被爆者の訴え

生き残った被爆者は、戦争・原爆の恐ろしさを、そして平和の尊さを訴え続けています。
このコーナーでは被爆者の方々の証言ビデオを見ることができます。


『悲しき別れ-荼毘(だび)』 松添 博氏画


『崎陽(きよう)のあらし』部分
深水 経孝(ふかみ のりたか)氏画

 

 

 


A  1945年8月9日

原爆投下前の長崎の街や風景、市民生活を展示しています。

B  原爆による被害

原爆投下直後の長崎の街の惨状を再現しています。

C  核兵器のない世界

戦争と核兵器の問題や平和について考えるコーナー

D  ビデオルーム・Q&Aコーナー

原爆記録映画等の上映、QAコーナー、検索システムなど