C-1 日中戦争と太平洋戦争
広島と長崎に原爆が投下されるまでには、長い戦争の歴史がありました。1931年の満州事変勃発から日中戦争へ、さらに、太平洋戦争の勃発から1945年の敗戦へ、15年ものあいだ続いた戦争は、朝鮮や中国をはじめとしたアジア諸国のたくさんの人たちを巻き込むことになりました。
日中戦争から太平洋戦争終結までの年表
C-2 原爆投下への道
第2次世界大戦が始まる前の年、1938年。巨大な原子力エネルギーを獲得する方法が、ドイツで発見されました。しかし、不幸なことに、この強大なエネルギーは人を大量に殺すための兵器、すなわち原爆として実用化されました。ドイツの原爆開発の動きを知ったアメリカは、莫大な資金と多くの科学者を使って原爆開発を進めました。ドイツの敗色が濃くなる中で、原爆投下の目標は日本に定められ、1945年8月6日広島に、8月9日には長崎に原爆が投下されました。
C-3 核兵器の時代
第2次世界大戦後、多くの科学者は、広島・長崎の反省から、核兵器は人類滅亡をもたらすと警告しました。しかし、世界はアメリカとソ連がにらみあう冷戦の時代に入り、原子爆弾のほかにも水素爆弾、中性子爆弾といった核兵器の開発競争が激しくなりました。より速く、より正確に目標を破壊する技術も進み、核兵器を持つ国々も増えました。「核兵器を持っていれば、攻撃されることはない。核兵器こそ戦争を防ぐ手段である。」という危険な考えのもとで、開発競争はとまることがありませんでした。
一方、核兵器による不安が世界中に広がるなかで、これ以上核兵器を持つ国を増やさないことなどを目的として、核不拡散条約(NPT)を制定したほか、特定の地域で核保有国が核攻撃をしないことを前提に、核兵器の開発、製造、取得などを禁止する非核兵器地帯が南半球を中心に創設されました。
それと同時に、核兵器廃絶を願う人々の声も高まり、平和運動の大きなうねりになっていきました。
C-4 現代の核兵器
はじめて原爆がつくられてから半世紀以上が過ぎた今なお、地球上には全ての人類を滅ぼしてもまだ余りある核兵器が存在しています。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国のほかにも、核兵器の保有が疑われている国は少なくありません。
現代の核兵器は、広島・長崎に投下された原爆にくらべ、破壊力も命中精度も格段に進み、人類は今もその恐怖のもとにさらされており、一日も早い核兵器の廃絶が、わたしたちの大きな課題となっています。
C-5 核兵器開発・実験の被害者達
長崎に原爆が投下されてから9年後の1954年3月、アメリカは南太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行ないました。この実験によって被害を受け、半年後に亡くなった日本のマグロ漁船第五福竜丸(ふくりゅうまる)の乗組員、久保山愛吉(くぼやまあいきち)さんは、その死の床で「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい。」という言葉を残しました。久保山さんの命をかけた願いにもかかわらず、その後も核兵器の生産は拡大し、人の命にかかわる事故がおきました。
核兵器の実験地域は、人ばかりでなく自然環境も、放射能で汚染された。核兵器開発競争のもと、犠牲となった人々が、今もその後遺症に苦しんでいます。
C-6 長崎から世界へ
戦後、長崎市は、原爆被爆都市の使命として、核兵器の脅威を世界に訴え、恒久平和の実現に向けて努力してきました。毎年8月9日には、原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で市長が長崎平和宣言を読み上げている。核兵器廃絶への努力をあきらめないという決意の表明であり、世界の人々へ向けた被爆地からのメッセージです。
長崎と広島は協力して、核兵器廃絶のための都市の連携を世界に呼びかけています。海外で開催する「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」では、被爆の実相を示す写真や資料を展示しています。また、世界の都市とともに「平和首長会議」を、非核都市宣言を実施した日本国内の自治体で「日本非核宣言自治体協議会」を組織して、「核兵器のない世界」の実現に向けた取り組みを展開しています。
世界から核兵器がなくなる日まで、長崎市はこれからも努力を続けていきます。
A 1945年8月9日
原爆投下前の長崎の街や風景、市民生活を展示しています。
B 原爆による被害
原爆投下直後の長崎の街の惨状を再現しています。
C 核兵器のない世界
戦争と核兵器の問題や平和について考えるコーナー
D ビデオルーム・Q&Aコーナー
原爆記録映画等の上映、QAコーナー、検索システムなど